2021年4月30日金曜日

「グロテスクな表現が嫌い」はただの好みの問題だが「天皇制が嫌い」は思想の問題である

「グロテスクな表現が含まれます」とはあるが「天皇が出てきます」とは書かれていない…

『デビルサマナー葛葉ライドウ対超力兵団』(プレイステーション2。以下『超力兵団』)のパッケージには「このゲームには暴力シーンやグロテスクな表現が含まれています」の注意喚起があるが、他方で「このゲームは天皇を守護する組織が味方で、大正天皇を救う話があります」とは書いていない。これを書くとネタバレになるから、書く訳にはいかないのは分かるのだが…。しかし、この表記が無いことである問題が生じている。今回はそれについて書く。

「天皇制が好きか嫌いか」は思想の問題なので…

『超力兵団』は天皇を守護する「超國家機関ヤタガラス」(以下ヤタガラス)が味方で、第七話では大正天皇としか思えない人物を救えとヤタガラスに命令される。これを拒否するとゲームは先に進まなくなってしまう。
この話の問題点は、「天皇制を嫌う思想の人を排除するもの」である点。その時点で「思想差別」と言える。「グロテスクな表現が嫌いだからこのゲームは嫌い」なのは単なる好みの問題だが、「天皇守護組織が味方なのでこのゲームは嫌い」というのは思想の問題である。日本には天皇好きな人だけではなく、「天皇制を嫌う日本人、在日韓国人、在日中国人」も多く居ることを考えないのは問題だと思う。
パッケージに「グロテスクな表現が~」という表記があるのは、「暴力やグロテスクな表現が嫌いならこのゲームは買わないで下さい」という意味であるが、このゲームの場合は「天皇制が嫌いならこのゲームは買わないで下さい」とも書くべきだ。

2021年4月25日日曜日

「昭和天皇でなければいいだろう」とは言い難い…

「大正天皇を救う話」のどこが問題か?

『デビルサマナー葛葉ライドウ対超力兵団』(プレイステーション2。以下『超力兵団』)の第七話は、「味方の組織・超國家機関ヤタガラス(天皇を守護し日本を護る組織であり、国家神道に似ている)の命令で、敵に呪いをかけられた大正天皇(としか考えられない人物)を救わなければクリア出来ない話」である。

この話の問題は、「天皇制を嫌う人からは猛反発を食らうこと」「差別制度である天皇制を称賛したり、天皇の名の下で行われる侵略戦争、植民地支配を美化するものであること」など、多数ある。

この『超力兵団』の舞台は1931年の日本(あくまでも架空のもの)であるが、元号が架空の「大正20年」となっていることには注目して欲しい(現実なら昭和6年)。つまり、もしも現実と同じ元号であれば第七話は「昭和天皇を呪いから救う話」になるのだが、なぜあえて架空の元号を用いてまで、昭和天皇を救う話にしなかったのか?

実在の大正天皇は病弱であったので、「呪いによって病弱になったのだ」、という解釈を用いるためなのかも知れない。だが、もう一つ重要な意味があると思う。それは「舞台を昭和6年の日本にして、昭和天皇を救う話にすると、『昭和天皇は戦争犯罪者である』と考える人から批判される可能性があるので、それを怖れたために大正天皇にした」のではないだろうか。実際、私も「昭和天皇は戦争責任を取るべきであった」と考える立場である。


大正天皇は戦犯じゃないからいいだろうって? それは通用しないんだよ

だからといって、「第七話は戦犯ではない(と言っても「第一次世界大戦」に参戦した責任はあるが)大正天皇を救う話なのだから、昭和天皇を救う話よりはマシ」とも言えない。なぜなら、大正天皇には「植民地支配責任」があるからだ。
大正天皇の父である明治天皇の時代から、日本は韓国(朝鮮)と台湾を植民地支配していた。それは大正時代になってもまだ続いており、1945年まで続いた。
そう考えると、第七話は「天皇の名の下で行われていた植民地支配を正当化・美化・称賛するシナリオ」に他ならないではないか? このゲーム上では植民地支配は描かれないが、確実に起きているだろうし。
製作者は「そんなシナリオではない」と言うのだろうが、大正天皇は「植民地を手放したことは無い」以上、どうしてもそのように解釈せざるを得ない。
ネット右翼たちはこぞって「日本が他の国を植民地にしたのは実はいいことだった、本当は明るい時代だった」と歴史修正を試みるが、そのように歴史を日本にだけ都合良く捻じ曲げることは許されない。

2021年4月21日水曜日

今の時代にライドウが再び生まれてくると不幸になるだけだ…

ライドウのことは大好きだけど…

私が『デビルサマナー葛葉ライドウ対超力兵団』(プレイステーション2。以下『超力兵団』)の復刻に反対しているのは、「このゲームが嫌いだから」ではない。むしろ大ファンで、主人公のライドウは私が知っている全てのゲームキャラクターの中で最も好き、と言い切っていい。
だが、好きであるがゆえにこのゲームの復刻等には反対せねばならない。その理由とは…。

今再び生まれると「嫌韓のネット右翼に利用されてしまう」から

理由は、今の日本は「歴史修正主義、嫌韓、嫌中、韓国ヘイト、中国ヘイト、ヘイトスピーチ、在日韓国人差別」などがまかり通っていることと関係がある。
今の世の中は、韓国人が日本を少しでも批判すると「韓国うるさい、面倒くさい、関わらない方がいい、韓国とは断絶せよ」などとほざくネット右翼が大量に湧いてくるし、「日本にのみ都合良く近現代史を修正した本」、「嫌韓本(韓国ヘイト本)」などもベストセラーになっていたりする(『マンガ嫌韓流』シリーズ、『反日種族主義』、『日本国記』などが代表格だろうか)。
こんな時代に、「天皇守護の超國家機関ヤタガラスに仕えて、天皇にまつろわぬ者を倒し、大日本帝国(言い換えれば「国体」)を護っているライドウ」が再び生まれてくると、ネット右翼たちに好きなように利用されかねない。つまり「天皇に仕えるライドウが、生意気な韓国をやっつけてしまえ。そういう新作も作れよ」などと言い出すネット右翼が確実に現れる、ということ(今までも一部に居たのかも知れないが)。
それはライドウにとっては不幸なことでしかない。だからこそ私は、好きだけれども『超力兵団』及び続編の復刻には反対している、というわけ。

2021年4月17日土曜日

「天皇守護組織が味方で、天皇が出てきてそれを救わなければならない」ゲームは前代未聞だと思う…

「日本や帝都を救うゲーム」ならば存在していたが…

何度も書いているが『デビルサマナー葛葉ライドウ対超力兵団』(プレイステーション2)では、「超國家機関ヤタガラス」(以下ヤタガラス)という「天皇(このゲームでは大正天皇)を守り大日本帝国(というよりは「国体」)を霊的に守護する」組織が味方である。
「大日本帝国が舞台で、帝都や日本を救う」というゲームであれば『サクラ大戦』(セガ)や、日本軍を指揮する戦争シミュレーションゲームなどがすでに出ているだろう。だが、「天皇守護組織が味方で、ゲーム中に天皇が出てきて(シルエットだけだが)、さらに天皇を救わなければ進むことが出来ない」ゲームは、少なくとも「任天堂のファミコン以来、家庭用ゲーム機で公式に発売された国産ゲーム」の中では前代未聞なのかも知れない。
まあ、「帝都や大日本帝国を護るゲーム」は、ある意味どれも「天皇を護るゲーム」とも言えるのだけど。なぜなら、帝都や日本を救うのは結局「国体(天皇制国家)を救う」ことだし。

「天皇守護のヤタガラスを倒す話」ならさらに前代未聞だったのに…

『メガテン』シリーズは「神をも恐れぬ、タブー破りの得意なゲーム」であることは確かだ。ゲームに「天皇を守護する組織が味方の設定と、天皇を救う話を入れること」も一種の「タブー破り」だったように思う。だが私が見るに、これは「タブー破り」というよりはむしろ極めて保守的であり、「右翼には好かれるだろうが左翼・天皇嫌いには徹底的に抗議される」類いのものだ。それらならばいっそのこと「ヤタガラスを滅ぼして天皇制自体を終わらせる」話にした方がいい。右翼には抗議されるだろうが。
天皇制は身分差別制度なので、それを守護する組織が味方なのは「差別思想を助長する恐れのあるもの」であり、本来はゲームで使ってはいけないものではないのか?

2021年4月15日木曜日

1931年当時の日本人の精神性を現代人に押し付けることは出来ない

 第七話は「1931年当時の日本人と同じような精神性を持つ人」にしか向けられていないのは問題である

『デビルサマナー葛葉ライドウ対超力兵団』(プレイステーション2。以下『超力兵団』)の第七話は、「『大正天皇(としか思えない)人物』を救えと『超國家機関ヤタガラス』(味方の組織)に命じられる。逆らうことが出来ない」という話である。これ自体、天皇制廃止論者などからは猛反発を食らうであろうシナリオなのだが、さらに問題なのは「この話は、1931年(ゲームの舞台)の日本人と同じような精神性を持つ人にしか共感されない」ことだ。
確かに、1931年当時の日本人の多くは「天皇は神であり、天皇を頂く日本はアジアで一番偉い」、「天皇のために働くことは素晴らしい、お国の為だ」、「軍人は天皇のために戦って死ぬのが名誉」といった精神性を持っていたのは事実だろう(ただし、そのような精神性を持たない者も、天皇制反対者も確実に存在したのだが)。だが、それはあくまでも「1931年に生きていた人間」のことであり、このゲームをプレイするのは「2006年(この『超力兵団』が発売された年)以降に生きる人間」である。それを考えずに「天皇を救わなければいけない」話を入れることは時代錯誤としか思えない。

天皇嫌いの人にまで「1931年当時の日本人らしく振る舞うこと」を強制することはある種の「思想差別」

さらに言うと、第七話自体「これが物凄く不愉快だと感じる人は、ここでこのゲームを放棄して欲しい」とでも言っているようなものだ。つまり「1931年当時の多くの日本人と同じような振る舞いが出来ない人にはクリア不可能」なのだ。これは『メガテン』という、様々な思想を持つプレイヤーの居るゲームとしては問題であるし、一種の「思想差別」とも言える。それに日本には、在日韓国人や在日中国人も住んでいるのだし。
いくら、『超力兵団』の舞台が戦前の日本であろうとも、それをプレイするのはあくまでも「現代人」であることを忘れてはいけない。現代人は、「『天皇は現人神だ、天皇を頂く日本は一番偉い』などと言う思想こそが、日本を侵略戦争に走らせ、後に『大日本帝国』を滅ぼすことになった原因の一つ」であることを知っているのだから。

2021年4月1日木曜日

製作者は「天皇守護組織を味方とすること」を特別問題視していないように思える

「超國家機関ヤタガラス」は間違いなく「天皇守護組織」である

以前より繰り返し書いているように、『デビルサマナー葛葉ライドウ対超力兵団』(アトラス。プレイステーション2。以下『超力兵団』)に登場する味方の組織「超國家機関ヤタガラス」(以下ヤタガラス)とは「大正天皇を守護する組織」である。『超力兵団』の第七話を見れば分かる。たとえ「天皇」、「陛下」とは出てこなくとも、「日本において重要な御方を救え、救わないと許さん」とヤタガラスに命じられることを考えれば理解出来るはずだ(このゲームの舞台は架空の1931年の日本だが、なぜか元号は「大正20年」とされている)。

製作者は「『ヤタガラスが味方であること』を特に問題視しなかった」としか思えない…

このゲームの設定とストーリーは、「天皇家が日本を守護している」ような幻想を好む右翼には好かれるのかも知れない。だが、実際のところは「天皇制は身分差別制度であり、さらに大日本帝国時代においては、隣国に対する侵略戦争と植民地支配の元凶ともなった制度でもある」わけだから、天皇守護組織・ヤタガラスを味方とするのは「差別を受け入れ、日本の悪い歴史を美化する」ものであり、非常に問題がある。特に天皇制廃止論者には徹底的に嫌われるだろう。
だが、製作者は「天皇守護組織が味方であることの何が問題なのか?」としか思わなかったのかも知れない。つまり、「天皇(特に昭和天皇)には戦争責任や植民地問題の責任がある」、「天皇制は差別制度である」とは微塵も思っていない…、だからこの『超力兵団』を出しても問題無いだろうと判断した…とも考えられる。
しかし、「日本の戦争や植民地支配を美化するような歴史修正(改竄)主義思想が、一般にも蔓延ってしまっている」今の日本では、このようなゲームはその傾向をさらに強める危険性があるため、復刻すべきでは無いだろう。